ま、すでに帰国モードに入っている私ですから。

もうドイツ語に関してはほとんどkeine lustやる気なし子だったりするんですが。

語学タンデム相手の都合もあり、語学交換授業は続けていたりする(私が日本語を教え、相手がドイツ語を教えてくれる時間を持つ事ね。基本的に無料。ドイツではかなり一般的な方法で、いいやり方だから日本でも普及してくれないものか)。
基本的に日本に帰ることは私の中では今や全然悲観的なことでは全然なく、やっとあるべき場所に戻れるという感覚で、はっきり言ってほっとしている。

別に海外に住んだことに後悔があるわけではない。

昔は日本ていやだなーという思いが結構強くあって(例えば選挙の宣伝カーが市民の迷惑をかえりみずうるさいとかATMがびぼびぼうるさいとか心にもないことを礼儀上言わないといけない状況が多すぎるとか、嫌なところっていっぱいあるじゃん?)、海外に住むことは長年憧れだった。ドイツに長期滞在できることになってはっきり言ってうれしかった。

ただねー誤算だったのは。
言葉がね。

住めば出来るようになるっていうのは大嘘で、大人になったら勉強しないと駄目なのだ。もちろんはじめから勉強するつもりで行ったことは行ったんだけど、
自 分 で 思 っ て い た 以 上 に 語 学 の 才 能 が 無 か っ た の は 大 誤 算 だ っ た 。

てか勉強しないとできないだろうけど、勉強すれば、慣れれば自然にドイツ語が口から出てくるようになるか思っていたんだけど。無理!はっきり言って。幻想!
少なくとも私は。
完全に頭が日本語と日本の常識で出来上がっていて、どこまで行っても翻訳するようにしか言葉は出てこないのだ。

常々そう思っていたけど、今日好例にぶつかったので書き留めておく。

今日語学タンデム相手と図書館に行ってきた。
図書館から出ようとすると、出口の前で7、8歳くらいの子供が座り込んで絵本を眺めていた。もちろん私たちはそれを避けて外に出たわけだが、子供の着ている服と絨毯の色が同色で私は危うく気づかずに子供を蹴りとばすところだった。危ないなあと思った私は、
「ねえ、ああいう時子供に『危ないわよ。蹴られちゃうわよ』って言うとしたら、ドイツ語でなんて言うの?」
と尋ねると、彼女はしばーらく考えてから、
「あえて言うなら、『vorsicht!man kann auf dich treten』だけど・・・」
「だけど?」
「直訳。言わない」
「え、どうして?」
まあそれからはドイツ語で説明してくれたんだけど、曰く、

7、8歳ともなれば十分判断能力があり、もし蹴られたとしてもそれは自分の責任だから、わざわざそう言うことを説明するのは状況的におかしいので、普通言わない。赤ん坊ならともかく。言うとしたら最初のvorsichtだけである。

と。
これを聞いて私はああ私がドイツ語を自然な言葉として使えることは一生ないな、と痛感したね。
こういうのって社会常識の問題で、こういうドイツの社会常識を感覚で反射的に理解するのは、子供のうちに訓練しないと絶対無理だ。別の社会常識で育ってきた大人は、こうやってたくさんの言葉で説明してもらわないと、なんでこれがおかしな言い回しなのかさえまったく理解ができない。
語学の才能のある人っていうのは、社会常識だとか行動規範とかにもニュートラルというか、確固としたものが無い人なんじゃないか、と今回思ってしまったよ。違うかな・・・。

まあというわけで、
よくも悪くも日本の常識にどっぷり浸かってそれが抜き難く身にしみついてしまっているからには潔く日本を拠点に生きるべきだ、と自分自身を納得させることができたのは、私の人生にある意味非常に有意義なことだったと思う。

とか言いながら日本に帰ったら帰ったで「あーあだから日本て嫌なのよね!」「ならドイツ帰れよ」みたいな会話もあったりするかもしれませんが(笑)。人間出来ていないから。てへ。まあその時はその時だね!

日本を拠点にして、頻繁に海外に出るっていうのが一番理想的よねー。宝くじ3億円位当たったらそうしましょっと。

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